どうも、最近はキャンプのことを考える時間が割合を増してきてますがこれは仕事です、冨永です。
いつもいつも、
「僕らは何やってるんやろう?」
という問いがつきまとって、
こたえが出てはまた悩み、悩んでは答えが出、
基本その繰り返しなんですが、
またちがった説明ができるかな?と考え付いたことがあるので、
それをまとめました。
ざっくりまとめると…
■勉強は「他者の」立場や考え方を知ること |
■自由研究は「自分の」立場や考え方を知ること |
■新しい試み「エドワードデボノの6色ハット」やってみます |
戦争時の生活ってどんなの?
あるとき、パートナーと「戦争中の人びとの生活って想像できる?」みたいな話をして、
「まったく画が思い浮かばない」と言われました。
もちろん、僕も(というか、いまやほとんどの人が)体験した世代ではないので、
リアルな経験はしていないのですが、
体験した人に聞いたり、映像や書物、絵画で触れたことはあり、
「疑似リアル」は知っています。
これも、割と多くのひとが同感だと思います。
疑似リアル:ここでは、「本物の映像」など作りものではないものの作りもの、という意味にしておきます。
で、ここでハッとしました。
「勉強しとかないといけねえな」
って。
勉強は自分以外の「立場」や「考え方」を知り、想像すること
一回話しは逸れますが、個人的には、
「何で勉強しないといけないの?」
という問いには自分なりに答えを持っておくといいなあと思っています。
だから、かれこれ十年以上その問いには向かっているのですが、
上のエピソードはそれを少しクリアにしてくれました。
つまり、いくら問題の解き方を知っていてテストとかでいい成績をとれても、
他者を想像したり、いろんな見方で考えたりすることは難しいんじゃないか。
逆に言うと、そのために勉強ってしないといけないんだな、と思いました。
だから、戦争のことなんかも、
経験したことがない僕らは、勉強することで、
当時生きていた人や、あるいは戦争を仕切っていた人の「立場」や「考え方」を
(一応は)知れるわけです。
化学とかのわけわかんないツブの話なんかも、そういうものの見方や考え方を知るためにやっぱりした方がいいわけです。
実は、まなびは「立場」や「考え方」を知る、というところが本筋だったようです。
そういや、学校の通知表には、
「〇〇のものの見方・考え方ができる」
みたいな評価規準があったような気がします。
(ちがったらごめんなさい)
じゃあ、あんたらは何やってんだ?
ここまでくると、当然のように「じゃああんたらは何やってんの?」というツッコミはくるわけで。
僕らは普段、自由研究をしていて、研究とは違うのでかなりゆるいところもあるし、「参考文献」的なものをひいたりすることはほぼありません。
だから、誰か(他者)の立場を知るものではありません。
が、やっぱり、対象にしているテーマから知らされることは山のようにありますし、
「自分」の立場や考え方が明らかになる。
つまり、
勉強が「他者の」・「ものの」立場や考え方を知るためである一方で、
自由研究は、「自分の」・「ものの」立場や考え方を知るためだということです。
言われてみると、「研究できるようにしてください!」という保護者の方はひとっこひとりいらっしゃいませんが、
「自分の考えをきちんと伝えられるようになってほしい」といって預けていただける方は多数いらっしゃいます。
今更ですが、自由研究のニーズ(という言い方は少しいやだけど)はきっとここにあるんだろうな、と思います。
一般的に、「探究」が社会的なニーズに後押しされている雰囲気が少しずつ出ていますが、
「自分の考えをもつ」ということは古今東西必要なわけです。
最近は、「探究」の呪縛から解き放たれつつあり、「自由研究」についてよく考えるようになっていますが、
いわゆる「勉強」ってなんでせなあかんのやろ?というところからスタートして、
じゃあ、自由研究は何することなんや?を考えたらたどり着いたのがここでした。
ま、また、かわるかもしれませんが。
だから、今年は「自分を知る」ことにさらに重きをおいて。
今年から「やってみようかな」と思うことがあって、それが、エドワードデボノの6色ハット。
師匠についていたときから知ってはいたけど、「うさんくさいな」と思っていた思考法の一つ。
でも、「自分を知る材料にはなるか」と考えを改めるとけっこうおもしろそうなので、やってみることにします。
F、Hの各コースで「とりあえず」使ってみることから始めてみます。
また、何かおもしろいことがわかったらここでお話ししたいと思います。
まとめ
■勉強は「他者の」立場や考え方を知ること |
■自由研究は「自分の」立場や考え方を知ること |
■新しい試み「エドワードデボノの6色ハット」やってみます |
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